Movie Review
partVI ウィラードとカーツ大佐
映画『地獄の黙示録 完全版』より
あのクルツ、いや、彼の亡霊を説明しようとしているのだ。
秘儀を伝えて、「無可有Nowhere」の奥から来たこの亡霊は、
僕に驚くべき確信を贈って消えてしまった。
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Feb 13/ 2002
◇3章のコラムを書き終えて、私にはまだまだ書きたいことがあることに気が付きました。
それをうまく伝えられるかはわかりません。
でもこの映画は私たちに地獄だけを見せているのではないと思うのです。
ウィラードの存在は、原作のマーロウ船長にあたるはずですが、映画のウィラード大尉そのものは、全くコッポラの手による人物である事は確かです。原作ではクルツは病死となっており、マーロウは臨終の場にいて、カーツの言葉を聞きました。マーロウはクルツに対して、確信を持っていて、それを「闇の奥」の全編に渡って語っています。そしてウィラードのように人を殺したわけでもないけれど、「彼を殺してしまうことは、当然伴って起こる物音を考えて、もちろん問題ではなかった」と言っています。前章のマーロウの言葉にあるとおり、私がウィラードに感じたのは、人間の希望の光です。
Even the jungle wanted him dead ...
orders from anyway.
part VI.ウィラードとカーツ
ストリートギャング艇で、ベトナム戦線の最中を遡りながら、ウィラードはカーツの経歴に触れ、感覚的にカーツに近づいているのだと私は思っている。最初は命令によりその存在を知らされたに過ぎず、数々の資料や、写真、音声のテープで、カーツについて知りつつ、改めてカーツの視線からベトナム戦争を突き抜けてきたウィラードは、カーツの寺院で過ごすうちに、マーロウと同じように、カーツの確信へと導かれていく。
私はカーツの中にある、純粋な魂にウィラードは共感していたのではないかと思っている。
少なくとも、カーツ自身に会うまでは、ウィラードはそう感じているのではないかと思っている。
カーツ大佐が純粋な人間???そう思われてもしかたがないだろう。カーツの寺院は死体が散乱し、見せしめのようにそのまま放置されている。
その王国で王として君臨しているカーツは、地獄よりの使者、悪魔の化身としか見えない。そんなカーツをなぜ、純粋な人間と私が言うのか、と不思議に思われる方もいるだろう。でも私はますます、その確信を深めている。マーロン・ブランドの醸し出す雰囲気に目を奪われすぎてもいけない。
3章でも触れたように、「原始」と「文明」においてカーツを考える時に、文明の国にあって、「原始」までを万能の感をもって支配しようとする勢力、その頂点にまで立つ事が出来る人間だったカーツは反旗を翻し、「原始」へ飛び込んだ。
べトコンの二重スパイを独断で抹殺したカーツを軍は糾弾し、この無為な戦争の最中において、カーツの行動を殺人と見なし、断罪したことはそのきっかけとなった。そしてジャングルの中へと、今までの地位を捨て飛び込んでいったのだ。
カーツを迎えたジャングルは、
「荒野の愛撫が…彼を魅惑し、彼を愛し、彼を抱擁し、ジャングルはカーツを知っていた。
そして彼の血管の中に忍び込み、肉に食い入り、ついには彼の魂すら、
神秘奇怪な悪魔の誓約によって、しっかり荒野の魂に結び付けてしまった。
いわば荒野に甘やかされ、荒野に滅ぼされてしまった。」
こんな表現をすると不自然に聞こえるが、カーツだけではない。カーツのような人間をジャングルは知っていた。
「爆弾を投下せよ。やつらを皆殺しにしろ。」 書類に書かれた、殴り書きのような大きな文字をウィラードが見るシーンがある。これは、どこを爆破しろと言っているのかわからなかった。この王国にもカーツが求めるものはなく、自分の死後、爆破せよ、といっているのかと思っていた。
でもそれは不自然だ。カーツの軍隊で爆弾の投下は出来るのかどうかはわからないし、アメリカ軍に依頼するとも思えなかった。でも今は、ジャングルに入る前の、まだアメリカ軍に属していた時のものだと思う。原作の中にも、まだクルツが常軌を逸する前に、ある団体に依頼されて書いた報告書の中に
「よろしく彼等野獣を根絶せよ!」という文章が出てくる。
何故その書類を未だに手元に残していたのか。カーツは全てを捨て切れていなかったのは、寺院の中のカーツの部屋にある写真や私物が示しているのではないかと思う。そんなカーツを迎えたジャングルの真意、その意思についてはこれを書いておきたい。
「真・地獄の黙示録」でジョン・マルコヴィッチが演じたクルツの台詞。この台詞はとても意味深く、カーツを語るうえでは、手放せないくらいの台詞だと思う。
”ジャングルはあらゆる者に罠をかける。
凡人の頭には計り知れない害になる。
災いの中で花開き、人に自分の心の奥底を探求させる。
だが思考の衣を引き剥がすのは危険だ。
その下に見えるのは深淵、自分の真の姿だ。
カーツは「恐怖を友と」して、独自の戦略により、ベトナム戦を戦っていた。その殺戮の最中にあって、カーツの心にまだ存在する、無垢な心とジャングルを支配する意思をジャングルは見抜いて、忍び込んできた。その無垢な心はすなわち、カーツの弱点だったのではないか。
ジャングルの罠はひと時カーツを自由にし、その後カーツの心を締め上げていったのではないか。ジャングルにとっては、カーツは最後まで侵略する意思を持った、復讐に値する人間に過ぎなかったのではないか。カーツはこの世に存在する事が出来ずに苦しみ、死を望んでいる。
それをウィラードは悟り、カーツを葬った。それは、このジャングルで狂人として一生を終えたと、息子に思われたくはない、カーツの人間としての意思を継ぐもので、カーツに繋る一切の真実をウィラードは持ち帰る決意をしたのではないかと私は思っている。
アメリカ軍にではなく、たった一人の息子に、この薄汚れた欺瞞に満ちた事柄の数々と戦い、その結果悪魔に捕らえられ、死んでいったカーツ自身の真実を伝える意思なのだ。
ウィラードに託されたものはカーツの真実ではあるが、それはカーツの事だけではない。
この世にある欺瞞の姿を暴く目と、それを打ち砕く手段を人間が模索していくという使命なのではないか。
それはただ裁くだけでは、決定的に何かが不足している。その何かは、私にはわからないのだが。
その何かが不足しているために、この世界で、戦火が無くなることはないのだろう。
そのコッポラの思いが、ウィラードとして創造されたのではないか。
地獄は将来に確約されたビジョンではないと思う。黙示録は、必ず現実に起こる地獄絵巻を予言したものではないはず。
人間が心に留めるべきビジョンだと思う。
「地獄の黙示録」は日本が付けた邦題ではあるが、この映画は、心に留めておくべき映画。私たちの真の姿を暴くジャングルも神の被造物であり、また私たち人間も神の被造物だと私は思っている。天地創造の神は、その誕生を非常に喜んだ。その両方が滅びる事を望んでいるとは思えない。
雨上がりに繋る美しい虹は、「ノアの箱舟」以来、決して人間を神の手で滅ぼさないという、証しなのだ。ウィラード達が王国を離れるときも、雨が降りしきってた。私はその後に美しい虹を想像する。雨は虹を暗示するものではないだろうか。全てを洗い流し、私たちに恵みをもたらす雨。
Nowhere (どことも知れぬ場所)は地獄ではない。
END.