Movie Review
暗黒の君主、悪魔。
映画「エクソシスト」を楽しむ前に…
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May 16/ 2001
◇映画の中の悪魔に興味を抱いたのは子供の頃からです。といってもオカルト好きではありません。悪魔が登場する映画に注目しているわけではなく、映画に出てくる悪魔について注目するのもです。悪魔をどう扱っているか、作り手の意図を楽しんでします。実は深い愛に満ちたものが多いからです。
悪魔は人間と違って個人的に神の前に出て語らう事が出来る霊的存在。
その初めは悪魔は神の子たちとして完全なものだった。どんな人間よりも遥かに優れた知性を持ち、神によるすべての被造物の中でも最も美しく全きものの典型とされていた。天地創造を神と共に喜んだ神の子ら、その存在の最高位にいた”ルシファー”。
この名前の意味はへブル語で「輝いている者」で、非常に美しい事を示す言葉。こんなに完璧で、素晴らしい存在なら、いくばくかの礼拝者を持ってもいいのではないかと考えたルシファーは反逆を起こし、自ら神との関係を断絶する。神の怒りを買い、高位から転落したルシファー。ルシファーに従い、共に反逆する者も名前を奪われ、かわりに神は、
”サタン”「反抗する者」という名前とやがて落ちる地獄とを用意したという。
神と悪魔、善と悪の宣戦布告である。
人間は神とその子「御使いと」、「サタン」の両方から見守られることとなる。
サタンはわが身と同じように、どうにかして多くの人間を反逆させ、地獄の道連れと考えている。そして神はその試みをサタンが行う事を許している。
その手始めがアダムとイブの”失楽園”だと言われる。この物語の結末により人間はサタンの絶対的支配下に置かれることとなった。十字架の購いはその支配下から救うためのもの。しかしサタンに救いの道は用意されていない。十字架を見るとき”サタン”は恐れと苛立ち、自分を天から退けた恋焦がれる神への歪んだ執着とを見ることになった。
オカルト映画などに登場するポルターガイスト現象、ネクロマンシー(交霊術)はサタンによる欺瞞とされる。
亡霊云々、地縛霊などあらゆるものは、人間の一番痛いところを突いて来る、惑わしに過ぎないと言われている。
そして映画のラストを飾る悪魔祓いでの苦しみは、サタンの試みとそれを許す神との狭間で、自分をなんと見るかを問うものである。信仰のありかを明確にする悪霊との戦いである。神の代わりにサタンに裁きを与えることはできないので、奇跡が起きることはまず、ない。
非常な苦しみと恐怖を味わうこととなる。丸々、生身の人間が悪魔と対決しているのである。そんな思いで見ていると、悪魔祓いを成功させる人は、ヨハネ・パウロ二世のようにとんでもない偉人ではなく、どちらかと言えば細々と、地道に貫いている人、またそういう牧師、神父が適役だ。人の上に立つ人では、到底全きものの典型だったサタンにはかなわないと思うからである。しかし取り憑かれた人間を数々の手法で痛めつける方法の悪魔祓いは異教徒からのもであって、悪魔が悪魔に、つまり仲間に話をつけているに過ぎないと言われている。 儀式に則ればお祓いが出来るというのはそんなところなのかもしれない。悪魔祓いの方法なんかも、チェックして見てもいいかもしれない。曖昧だが、日本人として悪魔を見る場合、このように堕落した御使いと見るよりは、動物霊、浮遊霊、地縛霊、先祖霊と多数あるので、日本の怪談に多く触れている人の場合だと迫力に欠けるとも見えるかもしれない。
邦画で大ヒットしたホラー映画の傾向は人間の恨みと執念である。そこにはなんの光もなく、ロマンも必然性も感じられない。学校の怪談の延長線上に位置するもので、恐怖心のみ煽り立てるエンターテイメントである。
悪魔。神の子として創造され圧倒的な強さと美しさを持つ者。人間の誰一人、悪魔を超えるものはいないのである。
こんな究極の悪役がどう表現されるのか、興味深々なのである。
もし次回があるのなら、具体的な映画を挙げて、書いてみたいと思っている…。
悪魔、神に対する西洋の人の視点に興味があるのです。
信仰やキリストに対する表現の意図を知りたかったというのが
きっかけですから…。