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「お前の親父さんの一言一句、俺は忘れてないけどな」
初めて言葉を交わした、同級生の松本博。今日は卒業式。今日でこの学生生活も最後。今まで、彼に近寄ろうとも思っていなかった。中学生の頃に一年生と三年生で同じクラスではあったが、その時も言葉を交わすことも目線を合わすこともなかった。高校の入学式に松本が講堂に座っているのに気づき、初めて同じ高校を受験していたことを知った。また松本とこの学校で三年間過ごすのかとちらっと思った。住んでるところもそう近くではなかった。
何の共通点もなかったはずの彼との初めての会話の途中で唐突にそう言った。
2学期の終わり、就職組は残りの三学期の期間中は、学校に来るのは卒業式のリハーサルと卒業式当日。本当に最後の一日に初めて言葉を交わしたのだった。私から話しかけた。
「松本くん、今日でお別れだね。就職は決まった?」
「うん。決まった。ドイツの洋菓子店でお菓子作るんだ。職人になるって決めた。」
「よかったね。急に話しかけてびっくりしたでしょ?」
「うん。そうだな。」
「前から話しかけようか迷ってたんだけど...」
「俺が怖いか?」
「いつも誰かと一緒でしょ、濱口くんとか大西さんとか...私の悪い噂も知ってるだろうから、ずっと気後れしてた。でも去年の夏休みのお盆の日、松本くんとうちの父が喫茶店で一緒だったのを見かけてから、気になってたの...」
「そうか、見てたんだ...」
松本は少しバツが悪そうに首のうなじをさすって俯いた。
2月はまだまだ寒い。生徒が最後の掃除で教室の窓ガラスを磨きあげて、晴天の日差しが差し込むその日光が松本の右の顔を照らし、長いまつ毛が白く透けて見え、私はその長いまつ毛を羨ましいと思って見つめていた。
「見てたんなら声かけてくれてもよかったのに。悪い噂?それなら君の親父さんからちょくちょく聞かされてたな」
「え、そんなにうちの父と親しいの?」
「親しいというより俺の書道の先生と生徒の仲でさ。小学三年生の頃からだから結構長いね。うちの親父の方が親しくしてもらってるよ。
君のことは、子供の頃は可愛かったけど、中学になってからは何を考えているのかわからなくなったとか、わがままで手が焼けるとか、まぁ普通の親子って感じの話だよ」
私はちょっと驚いた。博とは学校で話したこともないけれど、私のことを案外知っているようで、私の方もバツが悪い感じで慌てて言葉を探した。
「それって普通のことかな」
「普通だよ。何もかもわかり合ってる父親と娘ってのもなぁ。まだ多感な10代なわけだしな。多分そんなもんだと思うよ。」
「普通って感じしないけど...」
「まぁひとん家のことは俺はわからないけど、俺の親父も俺も、君の親父さんから書の手解きを受けてたんだよ。最初は書道を習ってたんだけど、うちの親父が凝り始めてね」
「松本くんも?」
「俺は書の方はまったく。何を書いて良いのかまずわからないからさ。まずポエム的な事が書けなくてね」
「そういえば私も苦手。墨の匂いは好きなんだけどね。なんだか墨の味も知ってるような気がするほど鼻の奥に匂いがこびりついてるような気がする時があるの」
「墨の味?」
素っ頓狂な声をあげて博は笑い出す。すると教室のあちこちで話し込んでいたクラスメイトが一斉にこちらを見ているような気がして、私は恥ずかしくなった。
「あれぇ?意外な二人が話し込んでるぅ」
目をぱちっと開けてキラキラと輝かせ、興味津々でこちらを見ている。私はこの大西英美が苦手でたまらない。私の悪い噂を吹聴しているのも英美ではないかと疑ってもいた。
でも、もうそんな高校生活も終わりだ。みんな卒業後の進路のことで話が持ちきりだ。みんな散り散りバラバラになる。海外へ旅立つ者もいる。
私のこの苦々しい生活も終わりだ。私は3月の半ばには家を出て一人暮らしをする計画にワクワクする気持ちと不安な気持ちを抱えていた。
誰にでも朝は来る。普通の朝ではないかもしれない。朝日がまだ登っていないか、雨が降っているか、雪か、蒸し暑いか。
気持ち良い朝が迎えられる日があと何回あるのかわからない。体は暖かくどこにも痛みはなく痒みもない、神経が全部静かにしていてくれる朝なら一番良い。カーテンの隙間から細く陽の光が差し込み、目を空けるのが眩しいくらいが良い。柔らかな布団にくるまり、もう少しこのままでいれたら良いのに。でも私にはそんな朝はなかなか来てはくれない。
いつからだっったかわからない。睡眠が唯一のストレス解消の手段で、夜寝る前が一番好きだった。私だけしかいない、誰の意識も飛んでいそうにない静かな夜。好きな音楽を聴き、好きなパジャマを着て、少しの間時間を楽しみベッドに入る。少し軋む音がするパイプベッドに敷布団を乗せて。いつかマットレスを買うつもり。そういつか。
「花柄のファブリックってちょっとダサいよね」
誰かがインテリアのフロアでそう言っていた。そうかな、そうかも。なんにでも花柄のものがある。ありとあらゆる、とは言い過ぎか。なぜそういうのかわからないけれど、わかったフリをして花柄のマットレスを横目にデパートを後にして以来、マット選びに苦戦していた。
なんでもよかったじゃない、誰かに見せびらかすものでもないものを。
いつも誰かの言うことに従ったり気にしたり、流行り物の様子を見ながら暮らして来た。
よく一人で生きて来れたな。それくらいは優しく住みやすいところだった神戸。人工の島のポートアイランドが出来、神戸空港、明石大橋が着工、建設中だった。JR神戸駅の南側の開発中でまだ神戸ハーバーランドがお目見えする前の、少し煩雑でお洒落で、皆が豊かで一億総中流だった世の中で、私は貧乏だった。
いつも心優しく、大声をあげた事のないあなた。その優しさは私に引け目があったせい?
まだマットレスもないパイプベットが置いてある部屋に通って来てくれたあなた。
女性の恋愛はいつも上書き保存。過去のことは現在の恋愛で上書きされてフォルダは常にひとつって誰が言ったのだろう。
そんなことはない。フォルダはいくつもある。たまに中身のファイルがペラペラであったり、ずっしりと重いファイルもあるもので、
ファイルの最後のページに、解決済みと一応書いておくものの、強引に解決させられたか、自分が解決を選んだかでも違う。
つまり相手から別れを告げられて別れたか、相手の立場を慮り、私が別れを選んだかによってさらにそのファイルを置くキャビネットも別々になる。
そのキャビネットに一番初めに入るファイルは。私の場合は、ファイル名は奥野忠司となるだろう。奥野忠司は私の父である。
物心ついてからずっと一緒に暮らし生活してきた記憶の一番古い記憶は間違いなく父という存在と言えるだろう。私は、「お父さんと一緒なら安心して暮らしていける」と、朧げにそう思っていたことを思い出していた。
父と娘では恋愛ではないが、この時記憶の奥に刻まれた、包まれるような安心感を私は求め続けていた。
だが今は父と私の中は最悪で、父は私に対して完全に心を閉ざしているかのように思え、話しかけることすら怖くなっていった。
父が教えてくれた愛、カーテンの隙間から細く陽の光が差し込み、目を空けるのが眩しいくらいの中でまどろみ、柔らかな布団にくるまり、もう少しあのままでいれたら良いのに。
何もなくていい、あの時の優しい記憶を私は求め続けていた。
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