Movie Review
part lll 密林の命令
映画『地獄の黙示録 完全版』より
ジャングルさえも、カーツの死を求めていた。
カーツが命令を受けていたのはまぎれもなくそのジャングルだったのだ。
ストリートギャング艇から、カーツ殺害へ向かう時のウィラード大尉の言葉。
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Feb 08/ 2002
◇やはり原作にたどり着きました。
この映画の密林の遡航は文明を遡る旅だという表現に出会ったことがありますが、その行き先は原始です。文明に相反する、原始。
「闇の奥」の中のマーロウはそれに言及しているポイントが多数あります。
そしてマーロウはクルツへの確信として、彼を「もともと、憐れみ深い人間だったらしい。母親は混血のイギリス人で父親も同じく混血のフランス人だった。いわばヨーロッパ全体が集まって彼を作り上げたといってよい。」と表現しています。
文明国の「植民地政策」の表向きの使命、「無智蒙味な土民大衆を、その恐るべき生活状態から救い出す」(その裏は掠奪ですが)を旗に進め、フランスの貿易会社の現地出張所で、今までになかったほどの業績をもたらした伝説の男として登場しています。
上に記した、ウィラードの言葉はカーツ(クルツ)捕らえた未だ原始のままの密林の秘密を暗示するものではないかと思います。
この章以降の助けとして、コンラッドの「闇の奥」を引用しています。
そしてティム・ロス、ジョン・マルコヴィッチ出演の「真・地獄の黙示録」についても触れています。
この作品は原作の小説を忠実に映像化していますので、ご覧になってはいかがでしょう。
Everybody wanted me to do it.
ウィラードとカーツ大佐の人物像が、はっきりとしたことによって、この映画のエンディングがスムーズに理解することが出来るようになったのではないかと思う。 二つないし、三つのエンディングが存在することになったこの映画、最後の最後まで見守ってしまった。ちなみに、ビデオでは王国爆破シーンがスローモーションで使われ、最後に「ApocalypseNow」の文字が出てくる。DVDでは武器を捨てるウィラードとそれに習う民衆、そしてランスを連れて船に乗り、岸を離れる。
そしてエンド・クレジット、メインタイトル。王国爆破は特典映像そして付いていた。
「再生」を意味するエンディングに相応しいものとなっている。このエンディングを考えれば、やはり戦争というものに限定されない、大きなテーマを感じる。
part lll 密林の命令
「事件自体は暗い。しかも悲惨なものだった、どう見ても、すばらしいなどと言えるものではない、
はっきりした事件でさえない。そうだ、妙に曖昧な事件なのだ。だが、それにもかかわらず、
なにか一筋の光を与えられたような気がするのだ。」
原作「闇の奥」の主人公、チャーリー・マーロウの言葉
この映画を見て、素晴らしいというには抵抗があるような気がしていた。感動したよ、というのはもっと抵抗がある。でもマーロウの言葉で多少この気持ちに納得する。私たちが信じている、道義的なモラル、これが良い事で、これが悪い事、というものとはかけ離れている。何も結論付けることはできない。
「ジャングルはあらゆる者に罠をかける。凡人の頭には計り知れない害になる。
災いの中で花開き、人に自分の心の奥底を探求させる。だが思考の衣を引き剥がすのは危険だ。
その下に見えるのは深淵、自分の真の姿だ。」
テレビ映画「真・地獄の黙示録」でのカーツの言葉
今から思えば「真・地獄の黙示録」のカーツの台詞はとても親切に観客に表現されていた。
カーツ大佐に捕らえられて、対面したウィラードは、「私は軍人です」と言い切ったシーンがとても気になる。裁判官でも、死刑執行人でもないのだ。
遡航により、カーツ大佐の一部分に近づき、狂気を極めた寺院に足を踏み入れたウィラードの強靭さは、ただ単に、冷徹さゆえとは思いがたい。
文明と引き換えに忘れられたはずの獣の本能により得られる満足感を拒否して、呪縛に捕らわれない健全な魂を持った人間だったのではないかと思う。
それはほとんど無意識ではなかったか。
ウィラードは戦争による精神的後遺症を引きずっており、故郷での家族との暮らしよりも、密林での任務を待ちかねていた。この映画で見る限りでも、ベトナム戦争の戦闘の最中で正気を保っていられる方が不思議だ。ウィラードはただ正常な反応を示していただけではなかったか。
この映画のオープニングでのウィラードに対しては理解出来なかったのだが、今はそのように思っている。
カーツに会うまでに、任務としてウィラードは息のかかるような至近距離で6人の人間を殺した 。その後帰還したウィラードは、妻と離婚の時に初めて言葉を発した。
その様子は、原作にあるマーロウが、コンゴーより(クルツの臨終の言葉を聞いてから)帰航して後の様子を言葉のみで再現しているようだ。
「ちゃんとした人間を見てさえ、白眼視する有様で、街をうろついていた。と言っている。
体温も異常だったが、静養しなさい、という伯母の言葉は的外れで、静養が必要なのは、心だった」
ウィラードは、マーロウより一段階経験を進めた人物として描かれているのではないか。
コッポラ監督はマーロウ像を把握して、その上で段階を進めた人物像を創造したんだと思う。
自分自身のメッセージをウィラードの存在を通して表現しているのだと思う。その意図が、この映画を原作からかけ離れたものにした理由だと思う。
原作の最後のマーロウはオープニングのウィラードと重なる。
高度な文明を駆使している人間達は、それを持たない民族に対してどんな思いを抱くだろう?そしてその思いは真実だろうか。すべてを失い、暗い闇に包まれた時、沈黙に支配された時、何を感じるだろうか?
その時対峙するのは己の魂。それを見るときに役に立つものは文明の中に、果たして見出す事ができるだろうか?
アポカリプスとは、人間が他の状態に「サイド」に突き抜けなければならない状況の
まさにその瞬間をいう(コッポラ)
密林の命令は、カーツという侵入者を拒み、復讐を下す。その命令はカーツも聞き、実行していたものだったのだ。
カーツはこれまでの華麗な経歴を無と感じ、密林の命令に惹かれていたが、自分の真の姿を見て苦しんでいた。
「文明と引き換えに忘れられた獣の本能」に任せての殺戮、その満足感を捨てられない。その万能の感を。
そこには「誤魔化し」はなかったが。それがアメリカ軍とカーツ大佐の決定的な違いだと思うのだ。
カーツ大佐の名前、KURTZはドイツ語で「短い」という意味だそうだ。短命とも解釈するマーロウは、彼の生死の一切の真実を物語っているとしている。
それらのどちらにも属することなく、すべてに決着をつけるかのようなウィラードの存在は、「善と悪」に分ける事が出来ない存在、この奇妙な物語に存在する人間、そしてこの物語に心を留める人間達の、一筋の光ではないかと思えてくるのだ。前の章でも書いたが、命の尊さ、祖国や家族、人類への愛を説いて反戦のメッセージを送るだけでは済まなくなってきている。それがそのまま、戦争への大儀になってしまうからだ。 しかしこの不自然な有様に決着を見出すために必要な何かを、ウィラードから感じる事が出来る。
王国爆破については、監督としてフィルムメーカーとして、現地に築いた巨大なセットの爆破を撮っておこうと思ったに過ぎないそうだ。物語の結末として撮ったわけではないのだ。映画制作のドキュメントの一シーンとして見るべきだろうと思う。
完全版のラストシーンは、判決の結果でもなく、勝鬨をあげる兵士達の姿でもない。
武器を捨てて、再生を目指す思いが込められているのだ。それが叶うのはいつの日か。
監督が想像した、武器を捨てる人類に到達するまでの経緯は、人間達はまだ知らないのではないか。
私がわかっていないだけだろうか。ここでウィラードが無言なのがとても良い。
結論はまだ出ない。いつの時代にも「何か」を投げかける映画なのだ。これから人類がどんな発達を遂げようと、この王国での結末に辿り付くことは
避けられないのではないか。しかもそれは Nowhere どことも知れぬ場所なのだ。
ジョセフ ・コンラッドについて
コンラッドはもともとは船乗りで、ポーランド人であった。父は英仏文学の翻訳者であった。
ポーランドは18世紀の分割以来、第一次世界大戦まで、ロシア領だった。父は独立運動の指導者的人物で弾圧を受ける。
5歳の時に北ロシアに一家で流刑となり、12歳で孤児となる。その後、親戚に引き取られたが、子供の頃から海洋の冒険物語が好きだったコンラッドは、17歳の時にフランス船の船員となった。
21歳の時にイギリス船に乗り込み、初めてイギリスの地を踏むことも経験した。それから37歳まで
16年間海上生活をし、東洋の植民地、オーストラリア、アフリカのコンゴーの上流まで経験し、その結晶が文学に生かされることになった。
「コンゴに行くまでの僕は、単に一匹の動物にしか過ぎなかった」とコンラッドはある人物に書き送ったそうである。初めてアフリカの奥地を体験し、文明国からきた人間としてあまりにも大きい沈黙と孤独の中で荒廃していく人間性、欺瞞に満ちた白人による搾取を見た。100年以上前のこの文学作品をコッポラは、白人の搾取をベトナム戦争に置き換えて表現したがその根本的なものは同じだったのである。戦争にただ「置き換えた」のではない。
人間による人間への搾取。
それを綺麗な言葉に代えてしまう人間の欺瞞。それそのものであった。コッポラの、困難を極めたフィリピン・ロケでの経験は、偶然とは思えない。
79年度版「地獄の黙示録」を見たとき、わからないことばかりだった。この映画と出会った事は、私にとって大きな満足。
でも、気付いてしまった。私はまだ、一匹の動物に過ぎないのだ。ショックだった。
part vl続く。次のページへ