Movie Review
私が見た映画で
描かれる悪魔について
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May 17/ 2001
◇私が初めて見た映画の中の悪魔は『オーメン』のダミアンでした。
”666”の悪魔の印とその根拠を知ったとき、恐れよりも興味の方が先にたちました。
今回は『オーメン』より4年前に公開され、27年後デレクターズカット版が発売された
『エクソシスト』について触れたいと思います。
汚れなく、純真であるはずの子供が悪魔の標的に選ばれるのは、 『オーメン』『エクソシスト』どちらの映画にも共通するものである。
『エクソシスト』のマックス・フォン・シドー演じるメリン神父はその理由について述べている。
(ここでは未見の方の為に詳しく書きません。)それはとても大事な事。絶対に忘れないでおきたい事。その理由からもわかるように、悪魔の目的は取り憑いた人間の破滅、なおかつそれ以上のものを見込んでいる。
一方『オーメン』ではダミアンそのものを傷つけることはせず、誰にも手出しできない少年を通して目的を遂げようとしている。
それは映画にもあるようにより多くの取り巻きの人間を集め、より多くの人間を惑わすためである。『オーメン』では前頁で書いたような、善と悪、愛などは感じることはできない。ダミアンが自分自身が生きている意味を知り葛藤する場面はあまりにも非情で救いがない。
この映画のタイトル、エクソシスト=悪魔祓い(師)が行われたのは17世紀までで、その後はカトリック教会の記録も数件であると言われている。
この場合の目的は曇りのない信仰をもつメリン神父と勤勉で実績がありながら信仰を失いかけているカラス神父が標的。遥か以前からメリン神父がやってくる事は悪魔の計画の内だった。すべてを計算して、カラス神父の信仰の揺らぎを突破口として着々と計画を進めていく。(原作ではカラス神父の母のかなりの罪深い面が描かれている。カラス神父の悩みの元凶でもある。)
少女リーガンとその母は、そのための囮ともいえるのである。悪魔は、かつて自分がそうであったように、祈りの中で神と語らうことが出来る一握りの人間の、神との揺ぎ無い関係を壊すのが目的なのである。敬虔であればなお良い。人々に信頼されていれば、もっと良い。よい宣伝になるからだと思う。悪魔祓いの苦しみが壮絶なのは、それでも信仰を捨てずにいられるかを、”善と悪”から問われているのからである。悪魔は神の目を充分意識している。
私が思う悪魔の性質をよく表しているのが、ブラッド・ピット主演の「セブン」だ。ケヴィン・スペイシー演じるジョン・ドウ、彼の様子をじっくり見てみるとおもしろい。実際、彼をどう見るかで映画の印象はガラリと変わる。これほど悪魔的な人間はなかなかいない。一見すると寡黙で静かな印象ながら恐ろしい計画を綿密に立て、人間の不正を暴きたて罪に問う。 裁きを下す。完璧。どの場面でも自分は悪魔だとは名乗っていないが、そこにある性質は悪魔により近いものである。
『エクソシスト』以降、描かれる悪魔はどれも色褪せているような気がする。なぜかといえば、人間が作り上げた悪のイメージだけが独り歩きし、本質を曖昧にしてしまっているからだ。映像技術の発達も、逆に表現を貧困にしている原因かもしれない。じっくり描き出す醍醐味を捨ててしまっている。
ディーン・R・クーンツ原作で主演ジェフ・ゴールドブラムの『ハイダウェイ』での善と悪の戦いは、似ているようで全く別のものだと思えてならない。
パズズ像のような、いかにも悪魔というものより、まず悪魔とわからない姿と性質で登場する映画もある。それはまた別の機会に…。
次はエクソシスト2について。
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