Seeking after truth ll
ホタル
II
知覧特別攻撃隊
遺書
II
知覧特別攻撃隊
遺書
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09 /03/ 2002
◇鳥浜トメさんの話
「隊員の人たちの多くは、戦争をしてはならない、平和な日本であるように、ということを言っていました。
そして、それをできるだけ多くに人々に伝えて欲しいとも言っていたのです。
みんないい人たちでした。みんな極楽に行く人達でしたから、とてもやさしいんです。
全部私の子供にしたい思いでした。自分の母の代わりになってくれと
ほとんどの隊員の人達が言いました。」
空中戦士たちの言葉は今でも生き続けていた。訪れる人の心を揺さぶり続けている。
薩摩半島、最南端にある「薩摩富士」と呼ばれる美しい開聞岳を目印に、戦闘機の胴体に重さ250キロ、
または500キロの爆弾をつけて、片道だけの燃料だけで南の空へ飛び立った戦士たちは二度と帰って来なかった。
知覧飛行場から目的地沖縄までの飛行時間は約二時間。その間の戦士たちの胸中は計り知れない。
知覧より436名、万世121人、都城83人、台湾134人、熊本127人、鹿屋12人、太刀洗14人、その他の基地からも知覧基地本部より命令を受けて総勢1036人の戦士が飛び立っていった。
その中には朝鮮より11名の戦士が含まれている。映画に出てくる「金山曹長」は忘れがたい存在である。
韓国は第二次世界大戦において、日本で特攻隊として戦死した国民など存在したはずが無いとして、遺品や遺骨の引取りを拒否しているという。
金山曹長の遺品も、山岡に残した言葉での遺言も、長年行き場所を失っていた。そして意に反して生き残ったと思い続けている元特攻隊員藤枝。
昭和を生き続けた藤枝は、昭和の終わりにある決断をする。どのストーリーも未だ横たわる根深い戦争の傷跡を思わずにいられない。
ただ漠然と映画を見て感じた思いが、空中戦士達の言葉に触れて、さらに迫ってくるようだ。
もしこれを読んだ方が、鹿児島へ行くことがあったら、知覧の地を是非訪ねてほしいと思う。
隊員たちはそれぞれ戦闘機を与えられ、愛機として大切にしていた。出撃の前は、機体に思い思いの色で絵や文字を書いた。
戦局が悪化するにつれ、戦闘機は万全なものではなく木製にジュラルミンを貼り付けただけのものになり、沖縄到達も望めないものさえあった。完璧な戦闘機で出撃したいという希望を叶えることはできなかった。日本軍は戦闘機を作る事さえ出来なくなっていた。
作戦の開始当初は得体の知れない自殺機として米軍を震撼させたが、その内、戦闘機を発見すると直ちに包囲し、迎撃されてしまうこともあったそうだ。記念館には無数の弾痕を残した戦闘機が展示されている。それは本当に、翼や機体がボロボロに、穴だらけになっているのだ。
十分ではない戦闘機の操縦桿に、自分の首を、足を、腕を結びつけて飛び立った。最後の時にもバラバラにならずに愛機とともにいられるように…。
映画では、奈良岡朋子が演じるトメさんが、涙ながらに語るシーンがある。
「私は隊員の人たちから、お母さんと呼ばれていたけど、本当の母親だったら、出撃するみんなを万歳で、手を振って送り出したりしなかっただろう、生きて欲しいと願っただろう」その心情は本物の、トメさんの悲しみで、彼女が抱え続けてきた大きすぎる苦悩だったと思う。
続く
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