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Seeking after truth ll


パッション The Passion of The Christ
キリストの受難
観たあとあなたの心に残ったのは何か。

二人のマリヤ

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25/01/2005

◇イスラム教、ユダヤ教、キリスト教
新約聖書、旧約聖書、コーランを基にしていて、
今はコーランだけを聖典としているのがイスラム教、
旧約聖書の「モーセの十戒」を中心にしていまだ救世主を待つのがユダヤ教、
新約聖書、旧約聖書を基にしているがキリスト教。
しかしキリスト教はイエスを処女で産んだマリヤを聖母マリヤ、
そしてたくさんの聖人を崇めるとするカトリック、
イエスをキリストとし、十字架の購いを信じる「福音主義」のプロテスタントに枝分かれしている。
しかし一般に手に入る聖書のように、旧約聖書と新約聖書は切り離すべきではない。
ふたつあわせて、はじめて完璧な聖書となるのだ。
そういう認識を私は持っている。監督のメル・ギブソンは敬虔なカトリック信者だと聞く。
そのため、福音書にはない台詞がマリヤのためにストーリーに用意されている。
イエスが捕らえられたことを知り、「時が来ました。みこころのままに…」と祈るのは特徴的。
そして最後までイエスを見守り続けるシーンが特別に作られていることを付け加えておきたい。

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 地面に何かを書くキリスト

真夜中に捕らえられ、裁判にかけられるイエス。それは祭司長カヤパを始めとする、ユダヤ教のラビや長老たちが激しくイエスを憎んでいたからだ。ユダヤ教は旧約聖書を経典とし、律法を厳守することによって義とされる教義である。そしてユダヤの民は神の民である。
それにことごとく反論し、新しい教えを説き、人の病気を治したり、飢えるものへの施しなど大きな奇跡を数多く行うイエスに民衆は何万人とあとへ続き歩いた。もやはユダヤ教の存続の危機となっていたのだ。しかもイエスは「ユダヤの王」といい、永遠の魂を代価なしに与えるといった。
これは神の領域で、神への冒涜に他ならない、という理由があった。

上の画像は、マグダラのマリヤが広場に引きづられ、石打の刑にかけられそうになった場面。
イエスはこのとき「自分の中に罪がないものだけが石で打て」といい、待ってるのだ。
律法学者や群集たちは、ひとりまたひとり、石を捨てて去って行くというシーン。実はマグダラのマリヤは律法によれば、石で打たれる姦淫を罪を犯していた。でもイエスは彼女を罪とはしなかった。それから、、たとえ話でわかりやすく新しい教えを説いていくイエスにみな、付き従った。マグダラのマリヤもその一人として。

マタイの福音書、16章57節に、
〜「預言者が尊敬されないのは自分の郷里、家族の間だけです。」〜
と明言されているのを考えてみると、母マリヤはイエスを産み、教育し、育ててきた人間としての思い出が払拭できないのではないか。
自分の産んだ子供がどうして救世主に…。その心のうちは想像を絶する。
この後も二人のマリヤは行動を共にしていくのだ。二人のマリヤにイエスが捕らえられたことを知らせにくるのは、後に「ヨハネの黙示録」を書いたヨハネだ。
〜イエスを捕まえた人たちはイエスを大祭司カヤパのところに連れていった。そこには律法学者、長老たちが 集まっていた。しかしペテロも遠くでイエスのあとをつけながら大祭司の中庭まで入り、役人といっしょにすわった。〜

(マタイの福音書 26章57節)

影から見守るペテロは、そのまえにあらかじめ預言された
イエス否認捕らわれ拷問されるキリストが実現されたことに激しく動揺し、泣き叫んでいる。
二人のマリヤ、ヨハネ、そしてイスカリオテのユダも同じ場所にいる。彼らはイエスがどのようになるのか見届けようとする。奇跡を待つのか、預言の成就を見ようとしているのか、それぞれイエスを見つめつづける。映画をご覧のかたがたはどのように思っただろうか。
連れてこられてすでに、イエスの右目はつぶれて 傷だらけになっている。しかし彼は申し開きもしない、ほとんど沈黙を守っている。


ここで冒頭のイザヤ書53章、4節から6節をご紹介する。

まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。
だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。
彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。
私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。
しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。
彼は痛めつけられ、彼は苦しんだが、口を開かない。
ほふり場に引かれて行く子羊のように
毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。


続く。

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