Seeking after truth ll
パッション The Passion of The Christ
キリストの受難
観たあとあなたの心に残ったのは何か。
イザヤ書の預言
キリストの受難
観たあとあなたの心に残ったのは何か。
イザヤ書の預言
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25/01/2005
◇イザヤ書53章8節、9節
〜しいたげと、さばきによって彼は取り去られた。
彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。
彼がわたしたちの民のそむきの罪のために打たれ、生けるもののの地から絶たれたことを。
彼の墓は悪者どもとともに設けられ、彼は富む者とともに葬られた。
彼は暴虐を行わず、その口に欺きはなかったが。〜
ローマ帝国の官邸に連れ出され、弁護人はなく自らも弁明をしないイエスに総督ピラトは、罪を見出せないことを認めたが、暴動が起こるのを恐れて、ガリラヤ地方からローマに来ていたヘロデ王にイエスを引き渡した。ユダヤ人とは違い、彼らにはユダヤ教の信仰はなく、イエスが何故罪あるものとされるのか、確証がなかったからだ。
しかしヘロデ王は奇跡をおこさないイエスを、狂人として再びピラトへ戻して遣した。
イザヤ書の預言が実現を待っていた。
恐ろしさ、痛み、弟子の裏切りで、イエスの心中はどうだっただろう。そして総督ピラトは対処に困り、囚人バラバとイエス、どちらかを赦免する提案を出して来る。ちなみにこの時解放されたバラバは更正し信仰を深めている。日本に「ミッション・バラバ」という元ヤクザによる伝道活動集団が存在する。
http://www.netpal.co.jp/barabbas/
ところどころ挿入される回想シーンはほとんど福音書に基づく物語だ。特に「最後の晩餐」は象徴的な出来事であり、特別なシーンだ。
同じ鉢で手を荒い、白いパンを切り裂き、ぶどう酒をそそぐ。これは今でも教会などで行われている「聖餐式」である。
パンはイエスの肉体、ぶどう酒はイエスの中に流れている血を現している。それを裂いて食べ、飲み干すということで、この後におこる一切の真実の象徴なのだ。
このあとからのシーンは直視できないくらいに厳しいものだ。私はそれを見ることがとても恐ろしく思え、見た後苦しむだろうと考え、劇場に行こうと誘われたが、それを断った。見るかどうかも迷っていたほどだ。
鞭打ちのシーンは旧約聖書、新約聖書でも何度も何度も書き表されて私も何度も目にし、耳で聞いた事柄である。
でも私はそれを頭では理解し言葉では知っていたのに、感覚的には何も考えていなかった。それが、現代のローマ法王まで巻き込んだ論争になるほど衝撃的な映画となった。
ピラトは「死なせるようなことはしない程度に」鞭打ちをさせた。鞭の種類は史実に忠実に再現されたそうだ。爪のある鉄の鞭が体に突き刺さり、容赦なく肉を切り裂いていく。
到底直視できずに、顔をそむけたくなった。あまりにもひどく残酷なシーンの連続だ。私ならどうやっても耐えられそうにない。
でもこれも神のみこころによるものなのだ。新約の入り口である。その時代のユダヤ教は律法に従う、すでに古い約束であり、それが終焉を迎えようとしている。そして新しい契約を私たちに与えるという神の愛の新約なのだ。
だれでも、イエスは自分のために、鞭打たれ、十字架の購いを成就したと信じる者は救済される、
新約聖書の根源になる事柄なのだ。目を背けてはいけないのだ。私は気力を振りしぼって、凝視した。
イエスの拠り所は父なる神だ。確信をもって耐え忍んだのだと思う。
それは旧約聖書であらかじめ預言された、神の計画だったのだ。
父と子と精霊の三位一体の神は、その子をこの世に人間の肉を持つもの、
すなわち、人の痛みと病を知り、痛みを知り、哀しみを知る存在としてこの世に降りて来させた。人々の罪を担うために。十字架の贖罪を信じることで救済される。イエスは私たちの身代りになって鞭打たれ、刺し通された。こんなにも大きな愛を誰が持っているだろうか。
イザヤ書はその大きな愛を示すのだ。預言は成就されようとしている。
続く。
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