Biography
1970年代後半、社会現象にまでなったディスコ・ブームの火付け役、ジョン・トラボルタ。続く『グリース』のヒットでハリウッドのスーパースターに踊り出ました。日本でも映画はヒットし、「フィーバー」とダンスは話題になりました。
しかし、80年代に入ると人気は下降してしまいます。その間、コメディ映画やTVムービーに出演していましたが、やはり以前の栄光は遠くなったと誰もが思うほどでした。
90年代に入り、タランティーノ監督の『パルプ・フィクション』で見事に返り咲いたのは周知の事実です。
本名は John Joseph Travolta
1954年2月18日ニュージャージー州イングルウッド生まれで、父サルバトールはイタリア系、母ヘレンはアイルランド系。
(血液型は不明です。ご存知の方はご一報くださいませ。)
彼は6人兄弟の末っ子。父は若い頃セミプロのフットボール選手でした。
仕事はタイヤ販売会社の経営者の一人でした。
母は、元女優の演劇コーチで、子供たちは幼い頃から特訓を受けました。
トラボルタは5歳の時からタップダンスを習い、6歳で母と共に舞台での演技を経験しています。
12歳の時、俳優を目指して地元の劇団入りし、ミュージカル『バイバイ・バーディ』でプロデビューし、ディナー・シアターの演奏などをこなしていました。
15歳の時、俳優ジーン・ケリーの兄、フレッドからタップダンスのレッスンを受けました。
16歳の時、高校を中退し、マンハッタンへ移りました。
1972年、オフ・ブロードウェイミュージカル 『グリース』 で抜擢を受け、デビューを飾りました。
1973年、ブロードウェイに 『グリース』 で進出しました。
1974年、姉を頼り、ロサンゼルスに移住。『外科医ギャノン』のゲスト出演。
1975年、映画 『魔鬼雨』 で端役を得てスクリーンデビューしました。
同年、ABCテレビのTVシリーズ 『ようこそお帰り、コッター』 で人気を博し、LPレコードや、シングルレコード Let Her In もヒットさせました。
1978年に公開されたリチャード・ギア主演でテレンス・マリック監督の『天国の日々』はドラマで多忙な為、この時、役を降板したそうです。(*マリック監督とは1999年『シン・レッド・ライン』で仕事上での再会が実現しました。)
1976年、ブライアン・デ・パルマ監督の 『キャリー』 で悪ガキ(笑)の役を得ました。
同年、TV映画 『プラスチックの中の青春』 で母親役を演じたダイアナ・ハイランドと知り合い、婚約。
1977年、『サタデーナイト・フィーバー』 が大ヒット。しかしこの映画の公開を前にして、婚約者のダイアナは癌で他界しました。
(彼がスターダムにのし上がる裏での悲恋です…。)
この映画で彼は時代の寵児となり、アカデミー賞主演男優候補にノミネートされました。
1978年、1950年代の若者を描いた 『グリース』でオーストラリアの歌姫、オリビア・ニュートン・ジョンと共演、彼はダイアナを失った悲しみを堪えながらの撮影で、オリビアはジョンの気持を察し、気遣い、二人の友情が芽生えていったそうです。
『グリース』は『サタデーナイト・フィーバー』を超えるヒットを記録し、サウンドトラックも大ヒットしました。
そんなトラボルタの人気に影を落とす事になったのは、1978年の『年上の女』の不評がきっかけでした。
この映画の公開後、相次いで両親が他界し、トラボルタは深い悲しみの中にいました。
(*まだまだオファー多数来ていたようですが、引退!?という日本語記事を読んだ事があります。)
1979年から撮影に入る予定だったアン・ライス原作の『インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア』や、『ゴッド・ファーザーpartlll』なども、トラボルタにオファーが来ていたものですが、どちらも90年代に入り別の俳優で映画化されています。その他、『スカーフェイス』のスティーブン・バウアーが演じた役などもあったそうです。(個人的に好きな映画ばかりなので、トラボルタが演じたらどうだっただろうと、つい、考えてしまいます。)
衣装まで仕上がっていた『アメリカン・ジゴロ』の主役も降板しました。この映画はリチャード・ギアによって演じられました。
(*ギアとトラボルタ。ギアはミュージカル『グリース』のロンドン公演でデビューし、『サタデーナイト・フィーバー』のトニー役のオーディションを受けています。この後に続くことも、因縁といものでしょうか…。)
1980年、スターの証し、ハリウッドのMann's Chinese Theatresに足形と手形を残すセレモニーが行われました。
同年、『年上の女』から2年間のブランクを経て、『アーバン・カウボーイ』で主演。復活。
しかし、予想に反して大ヒットにはなりませんでした。
1981年、再び、ブライアン・デ・パルマ監督と組み、『ミッドナイト・クロス』に主演。
デ・パルマ監督は当初、このシナリオの主役はもっと大人の俳優を頭に置いていたそうです。
何人かの俳優にシナリオを送り、その中に、ロバート・デ・ニーロもいたそうです。しかし、トラボルタはぜひ、自分にやらせて欲しいと申し出たそうです。今までのイメージを払拭し、再生を賭けていたのです。
『ようこそお帰り、コッター』で彼を見て 『キャリー』 に出演させたデ・パルマ監督は、いつかまた一緒に、と約束していたそうです。。
監督はちゃんと、トラボルタを頭に置いて脚本を用意していました。その企画はニューヨークの麻薬捜査官の腐敗の実態を描いたものだったのですが、監督は口論が元で、スタジオから解雇され、その後、別の監督の手に渡り、別の俳優が演じ、大ヒットとなりました。
その映画は『プリンス・オブ・シティ』という、超傑作の大作です。
しかし『ミッドナイト・クロス』はトラボルタの、大人の俳優としてのステップになったことは、間違いないと思います。デ・パルマ監督も久しぶりに会うトラボルタを見て、この役が似合う大人になったと思ったそうです。
1983年、『サタデーナイト・フィーバー』の続編、『ステイン・アライブ』 で再び、トニー・マネロを演じます。
監督をぜひ、スタローンにと言い出したのはトラボルタ本人です。ハワイで『ロッキーlll』を見て、彼しかいないと、パラマウントの幹部たちに申し出たそうです…。ワーク・アウトの指導を受け、別人のように生まれ変わり、まさに全力で臨んだ映画です。
この映画のために、トラボルタは、『愛と青春の旅立ち』のオファーを断っています。そしてこの映画もリチャード・ギアが主演し大ヒットとなりました。
(*リチャード・ギア。結構好きですが、かなり違う個性を持つお二人です。本当にどうしてなんでしょう?)
同年、続いて 『セカンド・チャンス』(まさに邦題通りですが)で、オリビア・ニュートン・ジョンとの再共演を実現させます。しかし、これも思うようにヒットしないままで、次第にトラボルタは、過ぎ去った俳優とされていきました。 (号泣)
1985年以降は、『ステイン・アライヴ』で、スタローンから指導を受けたワーク・アウトに関する事を書いた書籍、ビデオなどが話題となったり、TVシリーズに出演していました。
トラボルタのカリスマ性は衰えず、トラボルタはファンから愛し続けられていました。
1987年に公開された『エキスパーツ』で共演したケリー・プレストンとの出会いを果たします。彼女は当時パートナーはいたのですが、この出会いは運命の出会いだったのでしょう。
彼女は1962年、ハワイで生まれ、1978年の『グリース』の映画ポスターでトラボルタを見た彼女は、いつかこの人と結婚すると予感していた、というインタビュー記事を読んだ事があります。運命的な出会いを果たした二人は、1991年に結婚しました。彼女との幸せな生活とともに、再び、スクリーンではトラボルタの活躍が始まろうとしていました。
話題性も充分持っていた『ベイビー・トーク』はヒットし、シリーズ化されました。制作費は桁違いに費やされ、日本でもヒットしたことはご存知の通りです。
1991年公開された『過ぎゆく夏』では、元ジャズ・プレイヤーの音楽教師として、若者をロックへ導きながらも、影のある大人を好演しました。
1994年、ハリウッドにおいて最も劇的なカム・バックと言わしめた、タランティーノ監督の『パルプ・フィクション』が公開されました。ヴィンセント・ヴェガの役は、初めからトラボルタのために用意されたものでした。タランティーノ監督はトラボルタのファンでした。1970年代のトラボルタをリアルタイムで見ていない若い世代に彼の存在をアピールして、それは大成功しました。
1995年、公開された『ゲット・ショーティ』もヒットして、圧倒的な支持を得ます。
1996年の 『ブロークン・アロー』では徹底的に悪役を演じ、トラボルタの魅力はさらに広がりを見せます。
続いての『マイケル』では、キュートな魅力を全面に、人々に愛される素晴らしい笑顔で映画を見る人の心を掴みました。以降、快進撃は留まることなく続いていきます。年に数本の映画に出演し、スーパー・スターとして揺ぎ無い地位を確立します。
1997年、再びジョン・ウー監督と組んだ『フェイス・オフ』では更に強力な悪役を演じました。ニコラス・ケイジと、お互いの口調や表情、仕草を出せるよう、綿密に打ち合わせをしたそうです。この映画で、悪役トラボルタとしての魅力についてもさらに広がりをみせました。
同じ年、ワーナーブラザースから『オペラ座の怪人』におけるファントムの役のオファーがありました。この映画はアントニオ・バンデラスの名前も挙がっていたようです。
1998年には、公開から20年の記念として『グリース』がアメリカで再上映され、大好評を得ました。以前からのファンも、若い世代のファンも巻き込んで、このリバイバルは大成功を収めることとなりました。
2000年の時点でトラボルタは彼自身の出演による、もう一つの『グリース』の企画を考えていたと伝えられています。サンディ役は再び、オリビア・ニュートン・ジョンをとあります。彼女はオーストラリアで彼女自身の伝記が映画化されているそうです。
オーストラリアのシンガーだった彼女は『グリース』の出演で、世界的人気を得、その後病気との戦いを経験しています。もし、実現しない場合はサンディ役を妻のケリー・プレストンと考えていたとも伝えられていましたが、この企画は後に否定されています。『グリース2』としてはすでに1982年にミシェル・ファイファー主演で映画化されています。
妻、ケリー・プレストンとの共演は2000年の『バトルフィールド・アース』でも見る事ができます。映像化は不可能とされた、ロン・ハバード原作のSF小説を映画化したものとして各方面で話題となりました。
現在、ケヴィン・スペイシー主演による『シッピング・ニュース』はプレストンとトラボルタの共演で進められていた企画ですが、降板し、夫婦共演としては実現しませんでした。
2000年は、ファンとしてもハラハラする展開を迎えていましたが、2001年、『ソードフィッシュ』は全米でスマッシュ・ヒット。ハリウッドはこんなタイトルを記事に冠しました。
" Welcome back,Travolta ! "
長男ジェット君と、長女Ellableuちゃん。そして最愛の妻、ケリー・プレストンと共に幸せな家庭を築いているトラさん。
妻を心から愛して、キッズたちへの子煩悩ぶりも伝えられています。オフには一日中家族とともに過ごし、目に入れても痛くないという感じで心から可愛がっているというおはなしや、趣味のカー・コレクション、ジェット機に関してもたくさんのエピソードが伝えられています。昨年、自慢の自家用機で日本来日が予定されていましたが、天候不良のため、来日とならなかったのは残念です。しかし、私たちファンは今後の更なる活躍を楽しみに待っている現在です。
続く。(準備中ですが辛いことが続きましたね。いつか更新したいと思います。(2023年4月)